父「中学校の同級生が旦那のDVで離婚して、子供2人抱えて大変そうだ。その同級生を助けたい。稼ぎの半分を渡す」母「それは出来ない」父「困ってる人を見捨てるのか!」→その後…
2025/10/06

話はずいぶん前に遡る。ある晩、父が唐突に切り出した。「中学の同級生がね、夫のDVで離婚したらしい。子どもが二人いて大変そうだ」。その声色は、同情を超えてどこか熱を帯びていた。続けて父は言う。「助けたい。俺の稼ぎの半分を渡そうと思う」。居間にいた母は、ほんの一拍だけ言葉を飲み込み、静かに首を振った。「それは出来ないわ。うちには兄とあなた(語り手)と弟がいる。まずは自分の家族を守るべきでしょう」。父は眉間に皺を寄せ、正義を掲げる人の口調で反論した。「困ってる人を見捨てるのか!」

 議論はすぐに家の土台を揺らし始めた。母は感情で拒んだのではない。家計、子どもの進学、住宅ローン、祖父母の介護——目の前の具体に責任を持つ者としての否と言葉を尽くした。けれど父は、半分という数字に妙な清廉さを見いだし、譲らなかった。やがて母方の祖父が怒る。「情けは美徳だが、家を壊してまでやることじゃない」。この一言が決定打となり、母と父は離婚した。家族の歴史は、その夜を境に二つの線へ分かれた。

 それから十四年。ある日、私のスマホに短いメッセージが届く。発信者は“元・父”。本文はたった四文字。「終わったよ」。指先が止まる。終わった——何が? 彼が選んだ“もう一つの家族”への支援か、それとも長年続けた“正義感の演目”か。思わず胸中で突っ込む。「は? お前はこちら側ではありませんが?」と。十四年の空白は、四文字では埋まらない。

 後から聞けば、どうやらその同級生の子どもたちが大学を卒業し、父の肩代わりが“一区切り”ついたのだという。大学まで、というマイルストーンを勝手に定め、完走した自分にケリをつけたつもりらしい。ならば、と私は思う。彼はその同級生と再婚すればよかったのではないか。責任をともに背負い、戸籍を同じくし、法的にも生活的にも“一つの家”を作ればよかったのではないか。けれど父は、正式に寄り添うことはしなかった。元の家族の外側に立ち続け、同級生の家の“外側”で資金を投じ、“両方のいいとこ取り”を夢見ていたのだろう。結果、守るべき家は一つも守れなかった。

 もちろん、困窮した人を助けること自体を否定するつもりはない。私だって、寄付やボランティアの価値を知っている。だがそこに、当事者へのヒロイックな称賛や外部の喝采が混じり始めると、目的と手段が容易に入れ替わる。自分の家族を養うのは当たり前——誰も褒めてくれないし、感謝も薄い。だが“よその人”を助ければ、派手に感謝され、無責任な周囲は口々に称賛する。その快感は麻薬だ。父はいつの間にか、その高揚に浸る人になっていたのだと思う。

 母はあの時、「できない」と言った。冷たさではない、秩序の宣言だった。生活は数式に似ている。収入、支出、将来の不確実性、家族の夢と不安——解は一つではないが、条件を無視して美しい答えを黒板に書くことはできない。母は黒板の前に立ち、現実の連立方程式を解いた。

父は観客席で、喝采の起きる物語を上演し続けた。どちらが正しかったかは、十四年後の家の姿が答えている。

 それでも、私たちは“終わったよ”にどう応じるべきかを、自分の言葉で決めなければならない。十四年前に切れた線は、今さら都合よく結び直せない。父が本当に何かを終えたのなら、次に始めるべきは“説明”と“謝罪”だ。母に対して、兄弟に対して、祖父母に対して。そして何より、自分が壊した家に対して。義理は法でも血でもない。説明責任と、二度と同じ過ちを繰り返さないという誓い——それを果たして初めて、人は「終わった」と口にできる。

 私は返信欄を開き、しばし画面を見つめる。返すべき言葉は、罵倒でも和解でもないのだろう。境界線を引く、短くて正確な一文だ。「こちらの生活は、とっくに始まっています」。十四年の間に、私たちは当たり前に働き、笑い、悩み、進学や就職や看病や弔いを経験した。その日々には拍手は少なかったが、確かな重みがあった。だからこそ、今日も静かに続けられる。

 父は“善”を選んだつもりだった。だが、善は順序を間違えると暴力になる。まず自宅の屋根を直し、次に隣家の雨漏りを手伝う。

その順番が守れない者は、どちらの家も雨にさらす。あの日の母の「できない」は、家を守った。祖父の叱責は、家の柱を支えた。私は今、その柱の下で生きている。終わったのは、父の独り舞台だ。こちら側の物語は、あの夜からずっと、静かに続いている。

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